輝かしい生活@ 勇士エフタの輝き 聖書:士師記11:1−4,31−35
1 さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。エフタの父親はギルアデであった。
2 ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。
「あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。」
3 そこで、エフタは兄弟たちのところから逃げて行き、トブの地に住んだ。すると、エフタのところに、ごろつきが集まっ
て来て、彼といっしょに出歩いた。
4 それからしばらくたって、アモン人がイスラエルに戦争をしかけてきた。・・・
30 エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、
31 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものと
いたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」
32 こうして、エフタはアモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。主は彼らをエフタの手に渡された。
33 ついでエフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく
打った。こうして、アモン人はイスラエル人に屈服した。
34 エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来てい
るではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。
35 エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてし
まった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないの
だ。」
メッセージ
♪?「信仰を持ち、恵みに満ち、御光の中往く、輝かしき生活をば、望まずやわが友、汝が持てるものを主の手に、ことごとくささげしや、条件つけず、降伏せば、勝ち得べし勝利を」♪?
これは聖歌556番「祈りすれど手応えなく」の2節の歌詞です。だれもが「輝かしき生活」を送りたいと願っているのではないでしょうか。ではその「輝かしき生活」とはどんな生活なのかを聖書から考えてみようではありませんか。
ヘブル書11章はいわゆる信仰列伝と呼ばれています。旧約の名だたる信仰者たちが名を連ねています。その中にエフタもいます。彼は士師の一人として8番目にイスラエルをさばいた人です。彼の人生は世の人が考えるような「輝かしい人生」ではなかったかもしれませんが、ヘブル書の信仰列伝に名を連ねるほどに、神の前には「輝かしい人生」だったのではないでしょうか。
ヘブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。・・・4 信仰によって、アベルは・・・7 信仰によって、ノアは・・・8 信仰によって、アブラハムは・・・23 信仰によって、モーセは・・・・32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
1.エフタには知恵が与えられました。
エフタの最も注目されるところは、結果的に一人娘を主にささげたことでしょう。(30−35節)この悲劇とも言うべき出来事には、神が私たちに教えようとされている数々の教訓があります。信仰者が神を喜ばせようとするとき、その動機が正しい動機であるべきことはもちろんですが、その方法についての正しい知識が必要であること、またそのために普段から神との親しい交わりが必要であること、また軽率であってはならず、慎重に思慮深く事を成すべきこと、もし自分が行なおうとしていることが違っていることに気が付いたら、速やかに悔い改めるべきことなどの教訓です。
ローマ15:4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
しかし同時に、この出来事を通して、エフタとエフタの娘のまっすぐな信仰というものが輝いていることに目を留めたいものです。それゆえ彼は信仰列伝に勇者として数えられているのではないでしょうか。
そのエフタが主によって勝利を収めた後も、他の敵との戦いは続きました。士師記12章にはエフライムとの戦いにおいて、エフタが率いるギルアデに神から勝利の策が与えられたことが記されています。
士師記12:5 ギルアデ人はさらに、エフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取った。エフライムの逃亡者が、「渡らせてくれ」と言うとき、ギルアデの人々はその者に、「あなたはエフライム人か。」と尋ね、その者が「そうではない。」と答えると、6 その者に、「『シボレテ』と言え」と言い、その者が「スィボレテ」と言って、正しく発音できないと、その者をつかまえて、ヨルダン川の渡し場で殺した。そのとき、四万二千人のエフライム人が倒れた。7 こうして、エフタはイスラエルを六年間、さばいた。ギルアデ人エフタは死んで、ギルアデの町に葬られた。
主はエフタに知恵を与えられたのです。この知恵は神のみこころを行うために必要な、神がくださった神からの知恵なのです。この世には、滅びに至る人間の知恵といのちに至らせる神の知恵とがあります。この神の知恵をいただくとき、私たちも主によって勝利を収め、主の前に輝くことができます。
1コリ1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。・・2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
ヤコブ1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
2.エフタには勇敢な心がありました。
1節には「ギルアデ人エフタは勇士であった」と記されています。エフタには勇敢な心があったのです。それゆえ、兄弟たちから追い出されたエフタのところには多くの者たちが集まりました。そしてギルアデがアモン人に攻められた時、彼らは恥ずかしげもなく勇敢なエフタに頼りました。勇敢である時、私たちも主の前に輝くことができます。
1テモ6:12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。
ヘブル10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。
しかし、勇敢な心もまた主の賜物です。エフタにその心が与えられていたように、私たちもまた主イエス・キリストを信じる信仰によって、神の知恵とともに勇敢な心もいただきたいものです。
ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
3.エフタには一途な信仰がありました。
エフタが数ある信仰者の中でも特に模範的な信仰者としてヘブル書11章に名を連ねているのは、彼が信仰によってイスラエルを敵から救い出したということなのですが、彼の実際の行動を見ると、不信仰、軽率、無知のそしりを免れません。特に彼が勝利の代償として、結果的ではありますが、かけがえのない一人娘を失ってしまったことは何とも残念なことでした。長い間、異邦的慣習の中で育った結果であることを差し引いても、彼のとった行動は誤っており、神に誓願を立てた時、彼は明らかに間違えたのです。神は犠牲を喜ばれる神ではありません。
エレ7:22 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。23 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』
目の前に娘の姿を見た時、彼の心はどれほど震えおののいたことでしょう。この時、エフタは神の前に打ち砕かれたに違いありません。もちろん誓願を取りやめることも可能でした。(申命記23:22)けれども彼は誓願どおりに娘を主にささげたのです。なぜ彼がそうしたのかはわかりませんが、ここに、非常に稚拙ではあっても、純粋で一途な信仰があったとも言えます。彼は主に何かをささげたかった、そして主に対する誓願を守りたかったのです。
主が忌み嫌われることの一つは二心です。先のヤコブ1:5に続いて聖書は言っています。
ヤコブ1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。・・・4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
エフタの信仰と彼の行動には確かに問題があったかもしれません。けれどもそのようなエフタのうちに一途な信
仰というものが確かにあり、それが彼の人生を輝かせていたということです。
私たちも輝かしい生活を送り、人生を輝かしいものとしていただきたいと願っています。それと同時に私たちはそ
れにふさわしい者でないこともわかっています。けれどもエフタは輝いていました。彼自身は欠けの多い、失敗だ
らけの人であったかもしれませんが、しかし主の前に輝いていたのです。少なくとも彼は神の知恵を求めました、
勇気を求めました、そして主の前に一途な者でありたいと願いました。神がたった一人の御子を惜しむことなく、
私たちのためにイエス・キリストをささげてくださった一途さと同じように、エフタには神のみこころにかなう一途な信
仰があったのです。私たちも欠けと過ちの多い者かもしれませんが、それでもエフタのように、信仰によって主の
前に輝くことができるのではないでしょうか。
1コリ1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。