札幌東聖書バプテスト教会

今、信じられるものA神の愛は信じられる                           聖書:1ヨハネ4:8−16


:8  愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
:9  神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいまし
    た。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
:10  私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え
   物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
:11  愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互い
    に愛し合うべきです。
:12  いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は
    私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
:13  神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も
    私たちのうちにおられることがわかります。
:14  私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしてい
    ます。
:15  だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神の
    うちにいます。
:16  私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにい
    る者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

メッセージ

今、信じられるもの」ということばの裏には「今、本当に信頼できるもの、信じられるものがありますか」ということばが隠れています。何も信じられるものがないということは残念なことです。たとえこの世に信じられるものが何もなかったとしても、神の愛は信じてよいもの、信じられるもの、否、信ずべきものなのです。
ヨハネは愛の使徒と呼ばれます。彼はその手紙の中で神の愛について伝えています。彼自身、神の愛を知り、また信じていると信仰の告白をしています。私たちもヨハネと同じように神の愛を知り、また信じているなら何と幸いなことでしょう。

1.神の愛を知ること、信じること
ヨハネはどのようにして神の愛を知り、また信じたのでしょう。彼はガリラヤ湖の漁師でしたが主の弟子となって主とともに3年ほど過ごしました。その間、彼は主イエス様のおことばを近くで聞き、数々のわざを目の当たりにしました。彼がイエス様を信じたのはそのおことばにより、またわざによってです。

わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。ヨハネ 14:10-11
 
私たちは今、イエス様を肉の目で見ることも、そのおことばを耳で聞くこともできません。しかし、私たちが信仰を持ち、主のみことばである聖書を読み、そこに神が与えてくださった御霊なる聖霊が働いてくださるとき、私たちは主のことばを聞くことも、そのわざを見ることもできます。そうすれば私たちもまたヨハネと同じように、神の愛を知り、また信じることもできます。

2.神の愛は天のお父様の愛
聖書は神の愛について何と言っているでしょうか。第一に神の愛は父なる神の愛です。神は万物を愛を持って創造されました。そして人もご自分のかたちに似せて造られました。

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。創世記 1:27

造り主である神は当然ながら造ったものを愛しておられます。それゆえ神が造られた一人も滅びることを神は望んでおられず、そのためにすべての人の救い主としてイエスをお遣わしになるほどに世の人を愛されました。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ 3:16

神はすべての人を愛しておられますが、同時に神を信じる神の所有の民、神の民は特別に愛しておられます。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。イザヤ 43:4

主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。エレミヤ 31:3

らに神は神の御子イエス・キリストを信じる人を神の子として新しく生まれ変わらせ、彼らの霊の父となってくださり、惜しみない愛を注いでくださいます。それゆえクリスチャンは神に対して大胆に親しみをこめて「アバ、父」とお呼びすることができるのです。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ヨハネ 1:12 -13

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。ローマ 8:15

神の愛はこの天のお父様の愛です。父が子を愛する特別な愛であり、無条件に愛してくださる愛です。私たちの造り主であり、私たちの所有者であり、私たちの父である神の愛なら私たちは信じられるのではありませんか。

だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。 ・・・イザヤ 43:1

3.神の愛は全能の神の愛
人間の愛は神の愛を反映したすばらしいものです。特に父親や母親の、子に対する愛は特別です。しかし、それが人間の愛である以上、どうしても限界があり、力及ばないことがあります。けれども神は人ではありません。神は無から有を造り出された創造主であり、不可能なことが一つもない全能の神なのです。

このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。ローマ 4:17  

神にとって不可能なことは一つもありません。ルカ 1:37

イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」ルカ 18:27

私たちを愛してくださっている神の愛が人間の愛と同じ次元の愛であれば信じたくても信頼しきれないこともあるでしょう。しかし、神の愛は人知をはるかに越えた力を伴う、偉大な愛なので信頼して信じてもよいのです。子どもは小さい時に親に全幅の信頼をしますが、やがて大きくなると親がそれほど完全でないことに気づくでしょう。しかし、神の子どもである私たちは、成長すればするほど、私たちの神が本当に完全な信頼できる神であり、その愛が永遠に変わらない、尽きることもない、無限の愛であることを知るようになるのです。

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、・・・エペソ 3:19 -20

4.神の愛はいのちを捨ててくださった神の愛
究極の愛とは私たちのためにいのちを捨ててくださった方の大いなる愛です。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。ヨハネ 15:13

イエス・キリストは私たちを愛し、私たちのために自ら十字架にかかっていのちを捨ててくださいました。「ここに神の愛が私たちに示された」(9節)「ここに愛がある」(10節)とヨハネは伝えています。子どものために犠牲を惜しまず、いのちすら投げ打つような父や母の愛はまさにこの究極的な愛の影です。私たちが知るべきは、影よりもその本体である神の愛です。そしてそれは私たちのために十字架にかかられたキリストの、偽りのない真実な愛なのです。私たちが今、信じられる、信じてもよい、信じなければならないのはこの愛ではありませんか。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。・・・
1ペテ 2:22-24