札幌東聖書バプテスト教会

神の祝福A神の祝福を見る目                                聖書:2列王6:14−17

14 そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。
15 神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の大軍がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいでしょう。」と言った。
16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者より多いのだから。」と言った。
17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

メッセージ
イスラエルがドタンの町でアラムの大軍に包囲された時、預言者エリシャとともにいた若い者は恐れ惑いました。しかしエリシャにはイスラエルを見守るさらに多くの神の軍勢が見えていたのです。エリシャが若い者の目が開かれるように祈ると、彼にもおびただしい神の軍勢が山に満ちているのが見えました。
さて、神の祝福は何よりも大切なものです。ヤコブは神の祝福を第一とし、神の祝福をいただくまでは神にしがみついて放しませんでした。(創世記32:19―29)私たちに必要なことは神の祝福を何としてでもいただくことです。それと同時に、私たちに必要なものは、神がくださっている神の祝福をしっかりと見る目です。

1.神の祝福は神がともにいてくださるところから始まります。
エリシャたちはアラムの大軍を前にして絶望的な状況でした。しかし、エリシャ以外の人の目には見えていませんでしたが、おびただしい主の軍勢がイスラエルとともにいてくださったのです。神の祝福はまず神がともにいてくださることから始まります。

詩篇73:28 しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

神が私たちとともにいてくださるためにはどうしたらよいのでしょうか。聖書は言います。神に近づきなさいと。また神の愛のうちにいるなら、神もまたその人のうちにおられると。

ヤコブ4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
1ヨハ4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

反対に、神から離れる時、人は神の祝福からも遠ざかります。神に近づくことは良いことですが、神から離れることは恐ろしいことなのです。決して神から離れてはなりません。

伝道者2:25 実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。
ヘブル3:11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

それでは、神に近づくとは実際的にはどうしたらよいのでしょう。これは言い尽くされたことですが、聖書を読む、礼拝に出席してみことばを聞く、祈る、そのようにして主と交わり、また聖徒と交わることなどです。このようなことはしようと思えば自発的にできることです。できることをし続けていく時に、神も私たちに近づいてくださり、ともにいてくださるのです。そしてそこから神の祝福が始まっていきます。

2.神の祝福は圧倒的で感動的です。
イスラエルとともにいてくださった神は圧倒的な力をお持ちです。その力はこの世のものではありません。火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。この神が下さる勝利も圧倒的勝利です。

ローマ8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

なぜ神は圧倒的な勝利を与えることができるのでしょうか。神は人ではなく、万物の創造主であり、所有
者であり、支配者であるからです。万物は神に従うのです。

イザヤ44:24 あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。

圧倒的な力をお持ちなのは父なる神だけではなく、神の御子イエス・キリストも同じです。

コロ1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

そしてまた、神のなさることは感動的です。神の御子イエスも感動的なみわざをなさいました。

ヨハネ6:12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」:13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。

何と言う感動的な出来事でしょう。同様に、エリシャが祈ると主はすばらしいことをされました。
2列王6:18 アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。20 彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真ん中に来ていた。21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」22 エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」23 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。

主は主のなさり方で私たちに主の解決を与えてくださいます。そしてそれは感動的です。主が私たちとともにいてくださり、祝福をしてくださるとき、主は私たちの想像を超えたすばらしいことを見せてくださるのです。この期待を胸に信仰生活をするのがクリスチャンの醍醐味と言えましょう。

1コリ2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

3.神の祝福を見る目
15−17節に3つのことばがあります。その3つ目「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」は本当に大事です。神は神の民である私たちとともにいてくださり、圧倒的、感動的な祝福を与えてくださるのです。けれどもその神の祝福が見えないと「ああ、ご主人さま。どうしたらよいでしょう」ということになるのです。
ある伝道者が伝道生活を退きました。失望したからです。しかし、その人を良く知っている人が言いました。「彼には神の祝福が見えないんですよ・・・。」もし私たちも神の祝福が見えなかったらきっと失望することになるに違いありません。主イエス様は言われました。

ルカ18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

では、失望しないでいるためにはどうしたらよいのでしょう。そのためにはいつでも祈ることです。あきらめないで祈り続けることです。それは、きっと主がすばらしいことをしてくださるに違いないと、疑わずに主に期待し続けることです。つまり信仰です。

ヘブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

この信仰の目こそが神の祝福を見る目です。そしてこの目を養うことが私たちクリスチャンに本当に大切なことなのです。
べブル書の11章はいわゆる信仰列伝と言われるところです。数々の信仰者たちが名を連ねています。そしてモーセについて次のように言われています。

ヘブ11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。

クリスチャンにとって信仰は不可欠なものです。その信仰によって見えない方を見、肉の目には見えない神の祝福をしっかりと見ることが大切です。神と神の祝福が見えてさえいれば、私たちは何があっても恐れることなく、喜びと感謝のある感動的な人生を送ることができるでありましょう。