札幌東聖書バプテスト教会

神の平安C パウロに与えられた平安                 聖書:1テモテ2:1−6








:1  そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
:2  それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
:3  そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。
:4  神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
:5  神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
:6  キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです

メッセージ 
テモテへの手紙は使徒パウロが若い伝道者であるテモテに晩年に書き送った手紙だと言われています。パウロの人生は困難に満ちていました。しかしその中にあってもきっと彼の心にはいつも神の平安があったに違いありません。たとえ荒れ狂った嵐のようなことが起きても、彼の心の奥底には神の平安があったはずです。だからこそパウロは、これからいよいよ困難な人生に乗り出そうとしているわが子のようなテモテに、キリストにあって平安で静かな一生を過ごすように勧めたのです。

1.神との平和を持っていたパウロ
だれでも「平安で静かな一生」を過ごしたいと願うのではないでしょうか。困難続きでおよそ平安などとは程遠い状況にあったパウロがいかにして平安で静かな一生を過ごし得たかは興味深いことです。
彼にはまず第一に神との平和がありました。

ローマ 5:1  ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

救われる前のパウロには平安がなかったはずです。彼には由緒正しい家柄と立派な教育があり、パリサイ人としての使命を果たしてその地位もありました。しかしまことの神を知らずにクリスチャンたちを迫害していたパウロは神の敵であり、彼の心の中にまことの平安はありませんでした。なぜなら人は神との平和なくして心にまことの平安は有り得ないからです。だれでも主イエス・キリストに対する信仰による罪の赦しと義とをいただいていないなら、その人はまだその罪ゆえに神に敵対しているのであり、その人のたましいは、やがて神によってさばかれることを薄々と知っておびえているのです。汚れた霊につかれた人がイエス様を見ておびえたようにです。(マルコ1:24)それでも人々が「平安だ、平安だ」と言っているのは、やがて必ず迎える死と、その死後に定められている神のさばきから目をそらして日を過ごしているからです。けれどもそのような人の心の奥底には平安はなく不安と恐れがあるのみです。

ローマ 1:18  というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。:19  なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。・・・:20  ・・・彼らに弁解の余地はないのです。

しかしイエス・キリストに出会って救われたパウロに神の平安が与えられました。彼は「私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」と明確に言うことができたのです。彼は主イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められた結果、神との平和が与えられたのです。すなわちそれは、神と人との唯一の仲介者であるイエス・キリストを通して罪を赦され、神の怒りを免れ、神と和解することができたということです。

ローマ 5:8  しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。:9  ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。:10  もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

この神との平和が私たちのたましいの平安に必要不可欠なものなのです。この神との平和をいただくためには、まず神の前に自分の罪を告白して悔い改め、イエス・キリストの十字架のあがないを信じて救われなければなりません。そうすれば神の敵であった人も一転して神がその人の味方になってくださいます。
これにまさる平安・安心はありません。

ローマ 8:31  では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

2.神に望みを置いていたパウロ
第二に、彼には神に望みを置く信仰がありました。
救われてから、いよいよパウロの困難の連続の人生が始まりました。

2コリ 1:8  兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、:9  ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。:10ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

せっかくキリストを信じたのになぜまた苦しみや悲しみがあるのかと思う人は少なくありません。しかし本当に苦しみも悲しみもなくなるには天の御国を待たねばならないのです。なぜならば救われても私たちはまだこの世で不完全な者であり、苦しみや悲しみの中でみことばのお取り扱いを受けて整えられる必要があるからです。

詩篇 119:71苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。:72  あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

パウロも信仰者とはいえ恐れも不安もありました。しかし幾多の困難を経て繰り返し繰り返し与えられる神の豊かな慰めと励ましによって強くされ、いかなる時も神に望みを置くことのできる確固たる信仰をいただいたのです。

2コリ 7:5  マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。:6  しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。
2コリ 4:8  私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。:9  迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。:10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

私たちもパウロと同じように、繰り返し繰り返し神のお取り扱いをいただきながら、なおも救い出してくださる神に望みを置く確固たる信仰を持たせていただくならば、いかなる状況にあっても神の下さる平安は私たちのうちに揺るぎないものとなるのです。

3.神にすべてを明け渡していたパウロ
第三に、彼はもはや自分を捨ててすべてを主に明け渡していました。

ガラ 2:20  私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

これは私たちに神の平安が与えられる究極的な方法です。パウロ自身はキリストの十字架によって主とともに死んで葬られているゆえに、もはや苦しみからも悲しみからも解放されているということです。イエス様が「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)と言われたように私たちもパウロと同じように自分を捨て、 自分の十字架を負って主についていくなら、もう何が起きても何の問題もなくなるのです。また、パウロは自分に死んだだけでなくキリストをわが主、わが神、わが王として自らのうちにお迎えしたのです。すなわちいのちも、願いも、権利もそのすべてを王なるイエスにすべて明け渡したと言うことです。私たちもパウロと同じように「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と真実に言うことができるならなんと幸いなことでしょう。私たちは救われてはいてもまだ不完全です。しかし完全な方であるキリストが私たちのうちに生きてくださるのであればこれにまさる安心、平安はありません。

ローマ 8:36「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。:37  しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。