札幌東聖書バプテスト教会

神の祝福C豊かな祝福を下さる神                聖書:マタイ5:1−12]

1 この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
11 わたしのために、ののしりられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

メッセージ
神の祝福について聖書は言っています。

箴言10:22 主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。

この聖句について新聖書注解には次のように書かれています。「本当の富の原因について教えている。この教えこそ、聖書の根本的な思想である。あらゆる祝福の原因は主にあり、主の主権的な恵みが人を祝福するのである。」

1.神に祝福されたアブラハムは豊かに富む者となりました。
聖書に最初に出て来る祝福ということばは創世記1:22にあります。それは、神の天地創造の第5日目に、海に棲む生き物と大空を飛ぶ鳥を造られた時に言われたおことばの中にあります。

創世記1:22 神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」

神が祝福される時、祝福されたものは豊かに増え広がって満ち満ちるようになるということです。
信仰者の祖として代表的なのはアブラハムです。彼もまた、その信仰のゆえに主の祝福に与りました。
創世記13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。・・・:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
アブラハムの子孫たちは主の祝福によって数えきれないくらいに増えました。アブラハムの子イサクも祝福され、イサクの子ヤコブも祝福されました。特にヤコブはイスラエルと呼ばれるようになり、豊かに増え広がってイスラエル12部族が彼の腰から出て来ました。そしてヤコブの子ヨセフも、エジプトでの苦労はありましたが、驚くばかりの主の祝福をいただいたのです。

創世記26:12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。
創世記35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。:11 神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。:12 わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」
創世記41:49 ヨセフは穀物を海の砂のように非常に多くたくわえ、量りきれなくなったので、ついに量ることをやめた。

神が祝福される時、それは圧倒的に豊かに富む者となるということです。私たちもアブラハムのように信仰をもって主に信頼するなら神の祝福に与って豊かに富む者とされるということです。

エレミヤ17:7 主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。
イザヤ30:18 それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。

2.「心の貧しい者は幸いです。」と主イエスは言われました。
山上の説教の冒頭は「「心の貧しい者は幸いです。」(3節)で始まります。続いて主は「悲しむ者は幸いです。」(4節)、「義に飢え渇いている者は幸いです。」(6節)、「義のために迫害されている者は幸いです。」(10節)とも言われました。「幸いである」ということは「祝福されている」ということです。普通に考えれば、辛く、悲しく、苦しみがあるような状況は幸いでも祝福でもありません。むしろ、身も心も豊かで、楽しく、平安な状況にあるとき、人はそれを「祝福されている」と考えます。
それではなぜ主イエス様は「心の貧しい者は幸いです。」と言われたのでしょうか。主は続けて「天の御国はその人のものだからです。」と言われました。天の御国とは天に備えられている、いわゆる天国のことですが、それは同時に、主を信じる人の心の中にすでに存在している、神がご支配しておられる領域のことでもあります。

ルカ17:20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

天の御国も神の国も主ご自身が王座を占めておられる神の領域です。たとえ心が打ち砕かれて、立ち上がれないような状況に中にあっても、心の中に主がいてくださるなら幸いだということです。同じように、涙も枯れてしまうほどの深い悲しみの中にあっても、心の中に主がいてくださるなら、もうすでに祝福されているということです。その人のうちにいます主が慰めてくださるからです。要は主のご臨在と、ご支配と、豊かな御手のお働きがその人にあるかどうかです。聖書は言います。

箴言10:22 主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。

私たちを豊かにしてくださるのは主です。主が祝福してくださると、私たちは豊かに満たされます。たとえどんなに辛く、悲しく、苦しい状況にあっても、主がともにいてくださり、祝福してくださるだけで、私たちの心は喜びに満たされるのです。一方、たとえどんなに富んでいる状況の中にあっても、そこに主がおられないなら、心は満たされないのです。大切なのは、豊かであると思わせる「もの」や「状況」ではなく、私たちを豊かに富ませてくださる「主」なのです。使徒パウロは言います。

2コリ6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

主がともにいてくださりさえすれば、また主の祝福さえあれば私たちは豊かに満たされるのです。

3.主の恵みは十分であることを知ることが神の祝福を知る秘訣です。
主が祝福されるとき、それは圧倒的な祝福であることを知りました。しかし、主が祝福してくださるとき、それは必ずしも目に見えるかたちで現れる「もの」や「状況」でないことも知りました。主がともにいて働いてくださるとき、いかなる状況においても主がその心を満たしてくださるからです。それでは、主の祝福と言うものは心の問題であって、目に見えるところの豊かさというものは与えられないのかという人もあるでしょう。確かに現実には、神の祝福に与るはずのクリスチャンでも、目に見えるかたちでの祝福がないように見えることは少なくありません。しかし、そうではありません。主に信頼し、主とともに歩んでいる人には、確かに豊かな主の祝福があるのです。

詩篇37:25 私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。

主が神の子どもたちに与えてくださるものは、彼らに必要なものであり、また十分なものなのです。

箴言30:8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。:9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。

主の祝福とは確かに圧倒的な祝福です。しかし、私たちが知っておかなければならないことは、主は必要以上のものをお与えにならないということです。私たちは主が与えてくださっているものがすでに十分であることを認め、それに満足して感謝していることです。

2コリ12:9 ・・・わたしの恵みは、あなたに十分である。・・・
ヘブル13:5 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
マラキ3:10 ・・・──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、
あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。・・・