札幌東聖書バプテスト教会

主がくださる喜びBキリストを宣べ伝える喜び                                  聖書:使徒8:1−5,12、25


1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。・・・
12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。・・・
25 このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。

メッセージ
クリスチャンが最初に主からいただく喜びは救いの喜びです。そしてまたクリスチャンは他の人が救われることをこの上ない喜びとします。そしてその喜ばしい救いをもたらすためにキリストの福音を宣べ伝えることもまたクリスチャンの喜びなのです。

1.使徒たちは困難の中でもキリストの福音を宣べ伝えました。
初代教会のクリスチャンたちには迫害の中での苦しみや悲しみなどの困難がありました。ステパノは迫害によって殺され、エルサレム教会のクリスチャンたちに大きな悲しみと恐れがありました。けれども彼らはそれでもキリストの福音を宣べ伝えました。そこに彼らの喜びがあったからです。
人にはそれぞれなすべきことがあります。まず私たちは自分のなすべきことが何であるかをわきまえ知るべきです。そして、そのなすべきことを知りながらしないならば、それは罪であり、一方、なすべきことを知って、そのなすべき本分をなす時に喜びがあるということです。

エレミヤ42:3 あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。
ヤコ4:17 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。

畑を耕す人は畑を耕して、漁をする人は漁をして、陶器を作る人は陶器を作って、そうすることで喜びをいただきます。人にはそれぞれ神の賜物としてのなすべきこと、分というものがあるのです。それはいわゆる仕事というものだけでなく、飲んだり、食べたりしながら与えられた人生を主にあって楽しむということもまた主の賜物であり、人のなすべきことです。

伝道者3:13 また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。・・・5:18 見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。


しかし、主に贖い出された私たちには、それらに加えて、私たちのなすべきことを主から頂いています。

1ペテ1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
・・・2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

私たちクリスチャンは人として世に生かされています。同時に神に贖い出された者として世に遣わされてもいます。それでキリストの福音を宣べ伝えることは私たちがどうしてもしなければならないことなのです。なぜならばだれかが福音を宣べ伝えなければ、だれも救われることはできないからです。ステパノを迫害して、後に回心してキリスト者になったパウロも、福音を宣べ伝えることは自分がどうしてもしなければならないことだと言っています。

1コリ9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいに会います。
ローマ10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

2.キリストの福音を信じた人たちはバプテスマを受けました。
キリストの福音を宣べ伝えると、当然その結果というものが現れて来ます。激しい迫害によってエルサレムから散らされていったクリスチャンたちはみことばを宣べながら、巡り歩いたとあります。(4節)ピリポがサマリヤで宣べ伝えると、男も女もバプテスマを受けたとあります。(5,12節)
バプテスマを受けるということは、みことばを受け入れ、、キリストを信じて救われたということの証であり、またそれは同時にキリストのみからだなる主の教会に加えられるということです。

使徒2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。・・・:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

初代エルサレム教会には迫害もありましたが、同時に爆発的な喜びがありました。毎日救われる人が起こされ、毎日バプテスマを受けて教会に加えられる人があり、その数が尋常ではなく、一日に三千人もの人が教会に加えられたからです。主がクリスチャンに下さる喜びの一つは教会が建て上げられる喜びです。自分が救われたことの喜び、人が救われて来ることの喜び、そのために福音を宣べ伝えることの喜び、またそれらに加えて、福音が宣べ伝えられた結果、多くの人がバプテスマを受けて教会に加わり、教会が堅個に建て上げられていくということがクリスチャンの大きな喜びとなっていくのです。それはちょうど、子どもが生まれて、生まれた子が日々健やかに成長をしていくのを当然に喜ぶ喜びにたとえることができます。その喜びは何にも代えがたい祝福に満ちた喜びです。教会が成長して建て上げられていくところにあるその喜びを失望することなく追い求めて行きたいものです。

エペソ4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

ともかく、救霊と宣教に加えて、教会を建て上げることはクリスチャンが主から与えられた使命であり、またそのなすべきことをなしていくところに主が喜びをくださるのです。

マタイ28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

3.ステパノは神の栄光を見て喜びに満たされました。
ステパノは福音を宣べたため、石で打たれて死にました。

使徒7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

しかし、彼の目は天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見て、彼は喜びに満ちていたのです。私たちクリスチャンが主からいただく喜びは天来の喜びです。いかなる状況においても、私たちの目が天に向けられ、主イエスに向けられ、そこに満ちている神の栄光を見ることができれば、私たちのたましいは喜びと平安をいただくことができるのです。ですから私たちクリスチャンは、クリスチャンであっても地上のものに目を留めるなら、そこには空しさしかありませんが、主イエスから目を離さないでいるなら、そこに天来の喜びをいただくことができるのです。

ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

クリスチャンには教会を建て上げる喜びがあります。そして教会が立て上がっていくとそこに神の栄光が満ちて、そこにも喜びがあります。モーセが幕屋を立てた時に主の栄光が満ちたようにです。

出エジ40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

教会が地上にある間は主の栄光が満ちるまでにはいかないかもしれません。しかし、それでも私たちは教会に神の栄光が現れることを待ち望みながら、教会を建て上げて行こうとしているのです。

エペソ5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。