札幌東聖書バプテスト教会

神の平安@ 人のすべての考えにまさる神の平安                      聖書:ピリピ4:1−7







:1  そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
:2  ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。
:3  ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。
:4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
:5  あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
:6  何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
:7  そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

メッセージ 
ピリピ人への手紙は諸説ありますがローマの獄中からパウロが書いた手紙だと言われています。パウロが置かれた状況はもちろん彼にとって危機的であり、同労のクリスチャンたちにとっても困難な状況でした。しかしパウロはそのような状況の中にあってもクリスチャンたちに「しっかり立って」「一致して」「(互いを)助けて」「いつも喜んで」「寛容な心であるように」と勧めました。それは彼らが信じているキリスト・イエスにあって、彼らの心と思いが「人のすべての考えにまさる神の平安」によってきっと守られると考えていたからです。
私たちもキリスト・イエスにあって「人のすべての考えにまさる神の平安」をいただいている者です。そうであるとすれば、たとえ危機的で困難な状況にあったとしても少しも思い煩うことなく、私たちの心と思いも守られるということです。クリスチャンの信仰生活において最も大切なものは何かと問われたらいろいろな答えがあるでしょう。しかし神がくださる平安こそは本当に大切です。神の平安があれば何がどうであっても大丈夫なのです。
さて、今日の私たちが置かれた状況はどのようでしょうか。世界戦争が起こるのではないかという不安、物価高騰がいつまで続くのか、これからどうなっていくのかという不安、大地震や異常な気候変動による災害の不安など、不安要因が年毎に募っているような状況なのではないでしょうか。しかし私たちクリスチャンはこのような状況の中で、この「神の平安」をいただいているということが何よりも大切なことなのです。

1.聖書に見るこの世の世界
この世で人が生きているということはどのようなことなのか、聖書によるとそれは実に不確実だということです。

聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。:あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ヤコブ 4:13-15

正常性バイアスという言葉をよく聞きます。問題意識が欠落して異常に楽観的に考える傾向です。いつも「なんとかなるさ」と考えるわけですが、無為に悲観的に考えるよりはよいかもしれません。しかしそれは本当に問題がない場合です。もし問題がある場合は放っておいてはなりません。最悪なのはなんともならないのになんとかなると思い込んでしまうことです。しばしばこの世は「大勢」というまやかしによって私たちの目を見えなくしてしまいます。私たちはこの世の世界の本質と本当に大切なものを見失ってはならないということです。

なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。:彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。エレミヤ 6:13-14

また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。2テサ 2:10-11  

2.聖書に見る本当に大切なもの
私たちはこの世にあってどうなるのかわからない者であるにもかかわらず大丈夫だと思い込みがちです。とりわけ私たちの罪とその結果としての滅びについてはまったくと言っていいほど無関心で無防備です。人は罪を知らず、認めず、その解決の必要性も感じていません。まさに絶望的です。聖書はすべての人には罪があり、その結果は恐ろしい永遠の死であり、その解決のためにイエス・キリストを十字架につけてくださったと言っています。

それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。・・・罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。ローマ 3:10-23
また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。:25  主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ローマ 4:24-25

今や私たちに罪があることが問題なのではなく、その罪をあがなうために十字架にかかれたキリストを信じないまま、その罪の解決をしない、しようともしないということが問題なのです。そしてまた私たちの目をくらませて罪をわからなくし、イエス・キリストを信じる必要性をわからなくするのもこの世の「大勢」の力なのです。残念ながら多くの人がイエス・キリストの救いを受けないまま、平安がないのに、平安なつもりでいるのです。しかし、聖書は明確に私たちに告げています。だれでもキリストを信じるなら罪の問題は完全に解決されるのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。・・・ 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。ヨハネ 3:16-36

3.聖書に見る神の平安
人にどうしても必要なものはまずキリストの救いであり、救われたことによって与えられる神の平安です。もし私たちが自分が罪人であることを知り、認め、その結果として永遠の滅びの刑罰を受けるべき者であることを理解して、罪を悔い改め、罪の赦しを求め、イエス・キリストの十字架のあがないを自分のこととして受け入れる時、だれでも無条件に罪が赦され、救われて永遠のいのちを受けることができるのです。そして、もう罪の刑罰とその支配から救われており、だれに罪を責められることもなく、神の前にまったく赦されて義と認められているということが、私たちにとって何物にも代えがたい平安となるのです。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。:2  幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。詩篇 32:1  

この詩篇32篇を書いた人は罪を赦されるまでは平安がありませんでした。しかし主の前に罪を告白して赦されたとき言い知れない神の平安が彼の心に訪れたのです。

私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。:それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ  私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ詩篇32:3-5

まず本当に大切なものは救われていることとそこにある神の平安です。
獄中から手紙を書いた使徒パウロはこの神の平安を確かにいただいていました。彼は、来るべき神のさばきから救われているということのゆえの平安のみならず、この世で生きている限りどうしても向かい合わねばならないすべての危機的状況や苦難の中においてもキリストのゆえにいつも平安でいることができたのです。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。ピリピ 4:12-13

主は私たちを罪から救ってくださるだけでなく、私たちが人生で経験するすべての苦難からも救い出してくださることができるお方なのです。ですからキリストを信じる人はだれでもいかなる状況にあっても平安でいることができるのです。この平安はもはやまやかしものの平安などではありません。私たちを愛しておられる神がキリスト・イエスにあって私たちの心と思いを守ってくださるところの、実に「人の考えにまさる神の平安」なのです。
今や私たちが置かれている時代はどこに向かってくのかわからないような未曾有の時代となりました。多くの人は何もできず、何も考えることすらできないという絶望的無力の中で、ただ「平安だ、平安だ」と自分に言い聞かせるほかありません。けれども私たちクリスチャンはイエス・キリストという方にある確かな平安を持っているのです。