主がくださる望みD天来の望み 聖書:詩篇121篇
1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
2 私の助けは、天地を造られた主から来る。
3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
メッセージ
人の望みというものはどこから来るのでしょうか? 詩篇121篇の作者は「私の助けは、天地を造られた主から来る。」と明確に断言することができました。何と幸いなことではないでしょうか? とりわけ、神を信じ、キリストを信じる私たちクリスチャンは創造主なる神から望みを頂いています。それはおよそ地上にある望みではなく天来の望みなのです。
1.アブラハムがいただいていた望み
アブラハムは信仰による神の民の祖と言われています。彼は神を信じて、その信仰が神に受け入れられたのです。
ローマ4:1 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。4 働く者のばあいに、その報酬が恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
だれでも神を信じるならその信仰が義とみなされて、その信仰によって神の民とされ、また神の子とされ、神の守りや祝福をいただくことができる者とされます。
アブラハムには神の約束が与えられました。それは彼から数えきれない子孫が生まれるというものでした。
創世記22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
しかし、アブラハムと妻のサラには子がいませんでした。そして、その神の約束をいただいた時、彼らはすでに年を重
ねており、もはや子を宿す力がまったく失せていたのです。
創世記17:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。
アブラハムは百歳、サラは九十歳になっており、人間的には子を宿す可能性は皆無でしたが、それでも彼は神を信じ
ました。そしてそれが彼の義とみなされたのです。このアブラハムの信仰は新約聖書で解き明かされています。
ローマ4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
ヘブル11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
さらに聖書は彼の信仰についてこのように伝えています。
ローマ4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
地上で見出すことのできる希望は有限です。しかし天来の希望は無限なのです。神に不可能はありません。およそ人
が望み得る望みなどというものはもはや望みではなく、望み得ないところにある望みこそが天来の真の望みなのです。
ローマ8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
2.主を信じる者がいただく望み
アブラハムからおよそ2千年経って、神の御子であり世の救い主であるイエス・キリストがお生まれになりました。そしてイエス様はおよそ30歳になられた時、ご自身が神の御子であることを公にされ、神の福音を宣べ始められました。そうした時、ベタニヤという村で、イエス様が愛しておられたラザロが死にました。ラザロのきょうだいであったマルタとマリヤはラザロの急死にたいそう悲しみました。ラザロが病気であることを聞いたイエス様はベタニヤに向かわれましたが、村に着いたのは、ラザロが死んで、もうすでに四日目のことでした。
ヨハネ11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。 ・・・14:そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。・15わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましよう。」16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
マルタとマリヤはラザロの死に打ちひしがれ、深い悲しみと失望の中でイエス様に申し上げました。
ヨハネ11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
しかしその時、主は彼女たちに対して、主を信じる者に与えられている望みについて教えられたのです。
ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
主を信じる者はたとえ死んでも生きるという望みを主からいただいているということです。そしてそのとおりであることを教えてくださるために、主は、死んで四日も経っていたラザロを生き返らせました。
ヨハネ11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
人は様々なことをとおして絶望の淵に立たされます。しかしその絶望の最たるものは死です。死にはだれも打ち勝つことはできず、皆もうすでにどこか諦めています。しかし主はラザロを生き返らせ、主ご自身も十字架にかかって死なれはしましたが、約束どおりに三日目によみがえられました。主は唯一、死に勝利された方なのです。
1コリ15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、・・・54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
3.主がくださる希望を信じますか?
人にとって最も大切なことは神を信じることなのです。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」という神のおことばを信じて疑わないことです。もしそのとおりだと信じるならそこに希望があります。それは地上で見出せるような希望ではなく、天来の希望です。それは、望み得ないところにさえある、決してなくならない希望です。
だれにでも希望は必要ではありませんか?希望はまさに今日という日を、そしてまた,明日を生きる人の原動力です。ある人はこの希望のことを夢とも呼びます。また、聖書には幻ということばも書かれています。英語訳の聖書の日本語訳では「幻のない民は滅びる。」(箴言29:18)と翻訳されています。夢や幻、希望というものが私たちにはどうしても必要なのです。けれども問題は、この世に希望を見出せないことです。けれども詩篇121篇の記者が「私の救いは天地を造られた主から来る」と断言したように、私たちであっても、天を仰いで、天地を造られた神を信じるなら、そこから天来の希望が訪れて来るということです。あなたにもです。
テトス2:13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。