輝かしい生活A サムソンの最後の輝き 聖書:士師記13−16章
13:5 見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」・・・:24 その後、この女は男の子を産み、その名をサムソンと呼んだ。その子は大きくなり、主は彼を祝福された。・・・
14:1 サムソンはティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘でティムナにいるひとりの女を見た。
2 彼は帰ったとき、父と母に告げて言った。「私はティムナで、ある女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、あの女をめとって、私の妻にしてください。」
3 すると、父と母は彼に言った。「あなたの身内の娘たちのうちに、または、私の民全体のうちに、女がひとりもいないというのか。割礼を受けていないペリシテ人のうちから、妻を迎えるとは。」サムソンは父に言った。「あの女を私にもらってください。あの女が私の気に入ったのですから。」
4 彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテがイスラエルを支配していた。
5 こうして、サムソンは彼の父母とともに、ティムナに下って行き、ティムナのぶどう畑にやって来た。見よ。一頭の若い獅子がほえたけりながら彼に向かって来た。
6 このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。サムソンは自分のしたことを父にも母にも言わなかった。・・・
15:14 サムソンがレヒに来たとき、ペリシテ人は大声をあげて彼に近づいた。すると、主の霊が激しく彼の上に下り、彼の腕にかかっていた綱は火のついた亜麻糸のようになって、そのなわめが手から解け落ちた。15 サムソンは、生新しいろばのあご骨を見つけ、手を差し伸べて、それを取り、それで千人を打ち殺した。・・・
メッセージ
先週学びましたエフタと同様にサムソンもまた士師記に登場する士師の一人です。ナジル人として主に祝福された彼(13:24)には神から特別の賜物としての怪力が与えられていました。(14:5−6)サムソンは軽々と敵のペリシテ人1000人を打ち殺すことが出来ましたが(15:14−15)、彼の力の秘密は彼の長い髪の毛にあったのです。(16:17)
そのように神の祝福をいただき、怪力と言う賜物をいただいていたサムソンでしたが、彼には一つの弱点がありました。彼は誘惑に弱かったのです。彼は神よりも女性に心を奪われました。(14:1−3)
士師の時代はイスラエルを導く指導者がおらず、民の力は弱まり、外国の攻撃に悩まされ、非常に不安定な暗黒の時代でした。けれどもイスラエルを憐れんでくださった主はイスラエルを敵から救うためにさばきつかさと呼ばれる士師たちを遣わされたのです。けれども彼らは信仰的にも、人間的にも欠けの多い人たちでした。サムソンも例外ではなく、彼はとにかく誘惑に弱い人だったのです。
1.誘惑に陥ってはなりません。
主イエスは十字架にかかられる前、ゲッセマネの園で切に祈られた時、眠りに落ちていた弟子たちに言われました。
ルカ22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。・・・:46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」
弟子たちは少しの間も目を覚ましていることができず、イエス様に注意されてもまた眠りの誘惑に負けていました。サムソンが誘惑に弱かったように、弟子たちも誘惑に弱かったのです。私たちも誘惑に対してしばしば無力です。私たちを取り巻く誘惑には、よく言われるところでは、例えばお金、異性、ギャンブル等があります。サムソンは特に異性に弱点がありましたが、人によって弱点は異なります。ある人は地位や名誉、ある人はスポーツや芸能などのエンターテインメント、ある人は占いの類などに心を奪われて、人それぞれの誘惑に陥ってしまうことがあります。
サムソンは誘惑されて自分のなすべきことを忘れてしまい、道を誤ってしまいました。すなわち彼はまったく堕落してしまったのです。そしてついに、彼の力の秘密をデリラと言うペリシテの女に明かして、その力を失ってしまったのです。
士師記16:17 それで、ついにサムソンは、自分の心をみな彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから、神へのナジル人だからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。」・・・:19 彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。20 彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう。」と言った。彼は主が自分から去られたことを知らなかった。
誘惑に打ち勝つ方法は何でしょうか。主イエス様は祈りであると言われました。
マタイ26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
マルコ14:38 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
罪の誘惑に打ち負かされていて、主の前にどうして輝くことができましょう。私たちに追い迫ってくる誘惑に陥らないように、いつも目を覚まして祈っていること、祈り続けていることが、私たちが輝くために必要なことなのです。
2.召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなければなりません。
2ペテ1:10 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。
サムソンは神へのナジル人として選ばれ、イスラエルを救う士師として召された人でした。それなのに彼は自分が何をしなければならないのか、すっかり見失ってしまい、まったく堕落した生活をしてしまったのです。私たちも主に選ばれ、また主に召された者です。果たして私たちは主の選びと召しにふさわしく歩んでいるでしょうか?
ガラ5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
エペソ4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
確かにユダの手紙では私たちクリスチャンのことが「召された方々」と呼ばれています。
ユダ1:1 イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。
そしてまた1ペテロでは私たちが召されたことについて2回言及されています。
1ペテ2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。・・・3:9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
私たちは主イエス・キリストに倣って歩むように、そしてまた、そうすることによって主の祝福を受けるように召されていますから、その召しにふさわしく歩まねばなりません。そしてそうするときに私たちは輝くことができるのです。
3.人生の結末
サムソンは誘惑に負けて堕落し、ついに与えられた力も失い、見る影もなくなってしまいました。
士師記16:21 そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。
けれども神のあわれみと神の御計画のうちに、彼の人生の結末は素晴らしいものになりました。
士師記16:22 しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。23 さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」24 民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」25 彼らは、心が陽気になったとき、「サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう。」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、26 サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」27 宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技をするのを見ていた。28 サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」29 そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。30 そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう。」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者より多かった。31 そこで、彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルとの間にある父マノアの墓に彼を運んで行って葬った。サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた。
彼が人生の最後に倒した敵の数はそれまで彼が倒した数よりも多かったのです。それは彼が来るところまで来て、落ちるところまで落ちて、やっと神の前に悔い改めて神に立ち返ったからです。もっと早く悔い改めたら良かったでしょう。そのとおりです。けれども残念ながら私たち人間はみな本当に罪深く、強情な者ですから、しばしばサムソンのようです。彼が失ったもの、また被った苦しみや痛みは計り知れず、もはやそれらを取り戻す術はありません。罪には刈り取りがあるのです。けれども彼はそれらすべてを償って余りある主のあわれみを頂いたのです。
私たちは今という時に、今日という日に、悔い改めるべきを悔い改めて召しにふさわしく歩む方が良いです。もし今そうできなかったとしても、後からでも主に立ち返るべきです。そうすれば人生の最後に輝くことができます。
マタイ21:28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。29 兄は答えて『行きます。お父さん。』と言ったが、行かなかった。30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。