札幌東聖書バプテスト教会

神の祝福@神の祝福をいただいたヤコブ                                聖書:創世記32:19―29

19 彼は第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じて言った。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、
20 そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである。
21 それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。
22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。

メッセージ
1.ヤコブは神の祝福を第一にしました。
ヤコブはイスラエルの祖です。私たちクリスチャンも霊的な意味ではイスラエルなのですから、ヤコブの霊的子孫ということになります。ヤコブは神の祝福を第一にする人でした。そして、兄のエサウと仲違いして、たった一人で故郷を離れてから、20年ぶりに兄のエサウがいる故郷に帰って来た時、どうしても神の祝福を神ご自身からいただこうとして、神と戦ったのです。私たちもヤコブにつながる者として、彼のように神の祝福を第一にする者でありたいと思います。
ところで、世の人が第一にしているものは何でしょうか。それは、経済的に豊かになること、健康に恵まれること、仕事が成功すること、家庭が守られることなどであり、いわゆる家内安全、無病息災、大願成就、商売繁盛などと言ったものではないでしょうか。このようなものが、世の人が考え付く、いわゆる幸せであり、このような幸せを手に入れた人生が幸せな人生であり、世の人は皆、このような幸せを追い求めているのではないでしょうか。
しかし、ヤコブが第一番目に大切なものとして考えたものは経済でも、健康でも、成功でも、家族のことでもなく、神の祝福でした。ヤコブが20年前に故郷を離れなければならなかった理由も、兄のエサウから、長子の権利という神の祝福を奪い取った結果でした。

創世記25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。
兄のエサウは神の祝福を軽んじましたが、ヤコブは神の祝福を何よりも第一に考えたのです。そのために彼は父のイサクをだましてでも(その方法論についてはいかがなものかとも思われますが・・・ともかく)神の祝福を獲得したのです。
ヘブル12:16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。
ローマ9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

2.ヤコブは神の祝福を受けるために、信仰によって神に従いました。
経済を第一に考える人はそのために一生懸命に働きます。健康を第一に考える人はそのために一生懸命に運動したり、食生活に気を付けたりします。神の祝福を第一に考える人はそのために何をしたらよいのでしょう。聖書は言います。
創世記22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

詩篇128:4 見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。
ガラ3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

神の祝福を受けるためには、まず主を恐れ、主を信じて主に従えばよいのです。その結果として善行に努めたり、自己犠牲を払ったり、生活を見直したりするようなことはあっても、そのようなことで神の祝福に与るのではなく、神の祝福を受けるにはまず主を恐れ、主を信じて主に従えばよいのです。
ヤコブはそのようにしました。すなわち、エサウが受けるはずだった祝福を奪う時も、またエサウから逃れてラバンのところに行った時も、彼は主にあって母リベカの言うことに従ったのです。

創世記27:8 それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。10 あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」・・・42 兄エサウの言ったことがリベカに伝えられると、彼女は使いをやり、弟ヤコブを呼び寄せて言った。「よく聞きなさい。兄さんのエサウはあなたを殺してうっぷんを晴らそうとしています。43 だからわが子よ。今、私の言うことを聞いて、すぐ立って、カランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。44 兄さんの憤りがおさまるまで、しばらくラバンのところにとどまっていなさい。

今や、私たちにとって主に従うとはどういうことでしょうか。それは神が私たちにくださいました神のおことばである聖書のみことばに従って歩むことです。

詩篇119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

ヤコブはそのようにして、人生の最後まで主の祝福のうちに信仰によって歩みとおしたのです。

ヘブル11:21 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。

そもそも、私たちイスラエルが神の祝福を受けることは神のみこころにかなったことなのです。なぜならば、私たちは祝福を受け、またその受けた祝福を他の人たちにも受け継がせるために、イエス・キリストの救いに与ったのですから。

1ペテ3:9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

3.ヤコブは神の祝福をいただくまで、神と戦いました。
神の祝福を受けるために、神が祝福してくださるまで、ヤコブは神と戦い、神が遣わされた人を決して放しませんでした。(24−29節)私たちクリスチャンは平和を旨とし、すべての人と平和を保とうとする者です。神に逆らうことはもちろん、人と争うことも避けます。しかし一方、神の祝福をいただくことにおいては、私たちはヤコブのように執着しなければならないのではないでしょうか。

ヘブル12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

イエス・キリストの十字架のあがないの完全さのゆえに、だれでも信じるだけで、罪が赦され、救われて神の祝福に与る者となることができます。しかし、救われた人はもう罪を犯さないように、罪を私たちに犯させようとする悪魔と霊的な戦いを戦わねばならないのです。

ヤコブ4:7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

世に君臨している悪魔は、私たちを神の祝福に与らせまいとして、「神はいない、神に従う必要はない、神の祝福などどうでもよい。」と声高に叫んでいます。しかし、私たちはその悪魔に立ち向かい、悪魔の声を退けて、神の祝福を第一にしなければなりません。神の祝福とか神の福音とかは世の人にとっては愚かなことに違いありません。しかし、神を信じる私たちにとっては神の力なのです。

1コリ1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
ローマ1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。