札幌東聖書バプテスト教会

主がくださる喜びA天にある喜び                                            聖書:ルカ15:1−10


1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
6 帰って来て、友達や近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
9 見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

メッセージ
クリスチャンが最初に主からいただく喜びは救いの喜びです。そしてそれからクリスチャンはこの地上に生かされている間、いろいろな喜びを主からいただきます。けれども、クリスチャンにはクリスチャン特有のこの上ない喜びが与えられています。それは他の人が救われることの喜びです。自分と同じように他の人が救われると、クリスチャンは大喜びをします。この喜びは天にある喜びであり、主がクリスチャンだけに下さるところの喜びなのです。

1.失われた人を見つけた喜び
クリスチャンは教会に新来者が来ると喜びます。その喜びはルカ15章の「いなくなった羊を見つけた喜び」や「なくした銀貨を見つけた喜び」に通じるものがあります。だれでも見失ったものが見つかると嬉しいものですが、クリスチャンは見失った人が見つかると、それがこよなく嬉しいのです。
まだ救われていない人(未信者)のことを主は「失われた人」と呼ばれています。そして主イエス様はその「失われた人」を捜して救うためにこの世に来てくださったのです。

ルカ19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

ここにはまず、すべてのものとすべての人が神のものであることが暗示されています。つまりまだ救われていない人は、そもそも神のものであり、神の前からいなくなっただけの人であるということです。

イザヤ44:24 あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。
イザヤ66:2 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。──主の御告げ. ──わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

それゆえ神から離れてしまっている人は神の前に帰ればよいわけです。それが救われるということです。神から離れている人は、自分は神とは何の関係もないと考えていますから、自分が神から離れてしまっているという考えには同意できず、受け入れられないかもしれません。しかし、事実、救われている人もそうでない人もみな神の被造物であり、神のご支配の中に置かれているという意味で神のものなのです。そして神はそのいなくなったご自分のものを今も捜しておられます。

創世記3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

そういうわけで、教会にだれかが導かれて来ると、まず主がそれを喜ばれます。そしてまた、私たちクリスチャンも主と同じように、失われた人が見つかったことを純粋に喜ぶのです。

ルカ15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。・・・:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

2.ひとりの人が悔い改める喜び
ルカ15章には「いなくなった羊」と「なくした銀貨」に続いて「放蕩息子」のたとえ話が書かれています。その放蕩息子は父親のところに帰って来て、自分の愚かさと罪を心から悔い改めました。

ルカ15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。・・・:21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

放蕩息子が帰って来たことは、もちろん父親の大きな喜びでしたが、その息子が自分の罪を認めて悔い改めたことはさらに大きな喜びでした。ルカ15:32で父親が喜んだのは、むしろ息子が悔い改めたことによります。失われた人が見つかるだけでも喜ぶべきことです。しかし、その人が自分の罪を告白して悔い改め、まことの神に立ち返り、イエス・キリストを自分の救い主と信じて救われたとなると、まず天の御使いたちに爆発的な喜びがわき起るのです。

ルカ15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。・・・:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

そしてその天上の喜びがそのまま地上にいる私たちクリスチャンにも降りて来て、私たちのたましいもその救いを目の当たりにして純粋に喜び踊るのです。ひとりの人が悔い改めるということは一人の人が滅びないで済むということです。人は結局、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じない限り、自分の罪のために永遠の滅びから免れることはできません。しかしだれでもイエス・キリストの十字架のあがないを信じるなら、すべての罪が赦されて永遠の滅びから永遠のいのちに移されるのです。私たちの救い主に感謝するばかりです。

ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ヨハネ5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

3.神のかたちに造られたクリスチャン
クリスチャンは自分が救われたことを喜びますが、それとともに、人が救われることも喜びます。使徒パウロも、そのように、兄弟たちが救われることを喜びとし、また願いとしました。

ローマ10:1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。

なぜそのようにクリスチャンは人が救われることを喜ぶのでしょうか?それは、私たちが神のかたちに造られたからなのです。まだ不完全とは言え、クリスチャンは救われて新しく神のかたちに造り出されたのです。

創世記1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
エペソ4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

「神のかたち」とは英語訳を直訳すると「神のイメージ」です。そしてそれは神のご性質に似た者として造られたということです。それゆえ、一人も滅びないことを願っておられる神と同じように、神のかたちに造られた私たちも、一人も滅びないことを願うのです。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

主が人に望んでおられることは一人も滅びないことであり、主が喜ばれることはすべての人が悔い改めに進むことです。そしてそれはまた主と同じ心をいただいている私たちの喜びでもあるのです。

1テモ2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
2ペテ3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
詩篇51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。