札幌東聖書バプテスト教会

知らないのですかB クリスチャンとは何者か                                           聖書:ローマ6:1−23


:1  それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
:2  絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
:3  それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
:4  私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
:5  もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
:6  私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
:7  死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
:8  もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
:9  キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
:10  なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
:11  このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

メッセージ 
パウロは「あなたがたは・・・知らないのですか」とクリスチャンに向けて言っています。それは主イエスを信じてクリスチャンとなったはずの人たちの中に自分がクリスチャンであることの理解に乏しい人たちがいたからです。
いったいクリスチャンとは何者であるのか。私たちももう一度理解を確かなものにする必要があります。

1.キリストとともに死んでよみがえった者
3−4節を見るとクリスチャンとはキリストとともに死んで葬られた者であることが言われています。そしてそれは新しい歩みをするためだと言われています。世では「○○は死ななきゃ治らない」と言いますが奇しくも聖書も私たちが新しく生まれ変わるためには死ななければならないと言っているのです。
イエス・キリストは私たちのすべての罪を背負ってくださり、私たちの代わりに十字架の刑罰を受けてくださいました。大変不思議なことですが、このことをそのとおりだと信じるとき、ただその信仰のゆえに私たちはキリストの死にあずかり、罪から解放され、罪の結果としての永遠の刑罰から救われるのです。(6−7節)
私たちクリスチャンが「死んで葬られた者」であると言うことは非常に重要です。もはや何も自分からすることはないと言うことです。もはや罪やあやまちを犯すことはできません。感情に支配されたり、自己主張することも何もできないのです。しかししばしばクリスチャンでありながら私たちの「古い人」(6節)が首をもたげてしまっている現実があります。私たちはもう一度「キリストとともに死んでしまった者」であることを自覚すべきです。
けれどもイエス・キリストは十字架に死んで葬られましたが三日目によみがえられたと言う事実にも目を留めなければなりません。(5,8節)キリストを信じる信仰によって、キリストの死にあずかるばかりでなく、キリストの復活にもあずかるのであり、キリストともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなると言うことです。
しかししばしばクリスチャンでありながら私たちの「新しい人」が少しも生きていない現実もあります。私たちはもう一度「キリストとともによみがえらされた者」であるということを自覚して「キリストにあって生きた者」(11節)とならなくてはいけません。

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。 エペソ 4:22-24

2.キリストにつぎ合わされ、結ばれている者
5節には私たちは「キリストにつぎ合わされた者」だと言われています。私たちはもとは神の民ではありませんでしたが、信仰によってキリストにつぎ合わされて神の民とされていると言うことです。

彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。 ローマ11:23-24
 
あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。 1ペテ 2:10  

またこれは言い方を変えれば「キリストに結ばれている者」と言うことにもなります。

私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。 ローマ 7:4

クリスチャンは新しい歩みをするために、そして神のために実を結ぶようになるために、キリストにつぎ合わされ、またキリストに結ばれた者であることがわかります。それゆえクリスチャンはもはやキリストから離れてはならず、いつもキリストのことばすなわちいのちのことばである聖書のみことばに養われていなければならないのです。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」 マタイ 4:4  
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 ヨハネ 15:5  

私たちはみことばなしに生きていくことはできませんし、みことばを読み、聞き、蓄えていくなら、必ずやそのみことばによって養われ、整えられ、幸いに導かれるでありましょう。それが神が定められた霊的な法則なのです。

3.神の神殿・聖霊の宮となり聖霊を宿している者
パウロはまた1コリントの中で9回「(あなたがたは)・・・知らないのですか」とクリスチャンに向けて言っています。
そのうち2回は聖霊についてです。クリスチャンとは何者であるかと言うことについて、先の二つの点も世の人には理解できないことですが、私たちのうちに聖霊なる神が住んでおられ、それゆえに私たちのからだはもはや神の神殿であり、聖霊の宮であるということはおよそ理解できないでしょう。しかし驚くべきことに、聖霊を宿している私たちクリスチャンはこれらすべてのことが難なく理解できるのです。これは聖霊なる神のみわざなのです。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 1コリ 3:16  
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。 1コリ 6:19-20
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえます・・・ 1コリ 2:14-15
 

私たちが神の神殿であり、宮であり、聖霊を宿していると言うことはどういうことか。私たちは私たちの心もからだも汚してはならない、神の聖霊を悲しませてはならないと言うことです。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。エペソ 4:30-32

終わりにローマ6:1−11の後(12−23節)も読んでみましょう。ここにクリスチャンの進むべき道があります。

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。・・あなたがたはこのことを知らないのですか。・・・:あなたがたは、・・・罪から解放されて、義の奴隷となったのです。・・今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。・・その行き着く所は永遠のいのちです。 ローマ 6:13-18