札幌東聖書バプテスト教会

知らないのですかA 創造主にして力ある神に望みがあります 聖書:イザヤ40:21−31、18


イザヤ 40:21  あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。
:22  主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。
:23  君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。
:24  彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。
:25  「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。
:26  目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
:27  ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
:28  あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
:29  疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
:30  若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
:31  しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。 ・・・
イザヤ 43:18  先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。:19  見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

メッセージ 
新改訳聖書で「(あなたorあなたがたは)知らないのですか」は新約に12回出て来ます。また「(あなたorあなたがたは)知らないのか」は旧約に8回、中でもイザヤ書に3回出て来ます。預言者イザヤを通して語られたみことばは、この世界とその中にあるすべてのものを造られた創造主なる神がおられることを知らないのか、その全知全能なる神を待ち望む者は新しく力を得ることが出来ることを知らないのか、そしてどんな状況下にあってもその神に活路があることを(あなたorあなたがたは)知らないのかと今も私たちに叫び続けています。

1.創造主なる神(21−26節)
イザヤが「(あなたorあなたがたは)知らないのか」と告げた最初のことは、この世界とその中にあるすべてのものを造られた創造主なる神がおられるということです。
世の人にとってそれはもはや作り話でしょう。しかしクリスチャンにとってはどうでしょう。かつての神の民イスラエルは神が創造主であることを当然知っているはずでした。が、その実そうでもなかったので神がイザヤを通して「(あなたorあなたがたは)知らないのか」と告げられたのです。
聖書はまず「初めに、神が天と地を創造した。( 創世記 1:1)」から始まります。この圧倒的真実が世界中で最も重要な前提なのです。だれもこの土台を踏み外してはならないのです。
「造られた」ということはそこに創造主のご意志やご計画、すなわち神のみこころがあるということです。人に対する神のみこころは人が神とともに永遠に幸福に生きることでした。しかし人はその神のみこころに背き、神から遠く離れてしまい、その結果、悩み苦しむ人生を送るようになり、悲惨と絶望に満ちたむなしい者となってしまったのです。
問題は神を神としないことです。すべての問題はまずこの一点に起因します。

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 ローマ 1:21

更なる問題は神ではないものを神であるかのように慕おうとするその反逆的不信仰です。たとえば神に造られた被造物に過ぎない動物や人を偶像として神の代わりに慕うことです。そしてその結果はさらに悲惨です。

彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。・・・ 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。 ローマ1:22-32

私たちがどうしても知っていなければならないこと、それはまず私たちが神に造られた存在であるということであり、当然にして神を神として、神とともに、神のみこころにかなうような生き方をしなければならないということです。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。 イザヤ 45:22  

2.力ある神(27−31節)
次にイザヤが「(あなたorあなたがたは)知らないのか」と告げたのは、その全知全能なる神を待ち望む者は新しく力を得ることが出来るということです。
そもそも神は全能なる創造主であると同時にすべてをご存知である全知なる神です。すべては神のみこころにより、神によって造られましたので当然ながら神がご存知でないことは一つもありません。それは私たちの人生の諸問題にまで及び、神は私たちの行くすべての道も、心の思い煩いもすべてをご存知であるということです。

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。 詩篇 139:1-4

この神が私たちを悩み苦しみから救い出してくださいます。また私たちに必要な慰めを与え、励ましを与え、力をも与えてくださいます。人には出来ないことでも永遠無限の神にはそれがお出来になり、その測り知れない御力をもって疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつけてくださることがお出来になるのです。
問題はこのお方を待ち望むかどうか、私たちの信仰です。信仰さえあれば、主は、走ってもたゆまず、歩いても疲れないような新しい力を私たちに注いで、鷲のように翼をかって上らせてくださるのです。私たちがどうしても知っていなければならないこと、それは主を信頼して待ち望むなら必ず主が豊かに答えてくださるということです。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。 詩篇 107:6  
彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。 詩篇 91:15

3.望みなる神(43:18)
この創造主にして力ある神が、実はイエス・キリスト御自身であるということも知っていなければならない大切なことです。神はお一人の神でありながら父、子、聖霊なる神だからです。

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 ヨハネ 1:10

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。コロ 1:16-17

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 イザヤ 9:6

この神の御子にして神ご自身であるイエス・キリストが私たちを罪とのろいから救い出すために、神の位を捨てて人となって世に来てくださり、私たちのすべての罪を背負って十字架の刑罰を受けてくださったわけですが、そこに私たちに対する神のあふれるばかりの愛があるとヨハネは語っています。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 1ヨハネ 4:10

そしてこのイエス・キリストは死よりよみがえられて今も生きておられ、今も私たちを愛し、私たちを救おう、恵もうとして私たちを待っておられるということ、それゆえ、このキリストを信じ、キリストに信頼して、キリストとともに歩んでいくならば、荒野に道を、荒地に川を設けてくださるキリストが、どんな時も必ずそこに活路を見出すことが出来るようにしてくださるということを私たちは知らないでいてはならないのです。

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 ヨハネ 11:25